聴いたメモ

  • 「武道館の野坂昭如」を聴く。このCDは、昔、中年御三家でビートルズ以来初の武道館コンサートをしたときのライブ版で、野坂の歌った部分中心に編集されている。ちなみに、司会は愛川欽也。最後の数曲は小沢昭一永六輔らと歌っていてMCも少々。三人で「できそこないのロック」という歌を歌っているのだが、中年御三家はグダグダ(歌詞うる覚え)で、でもそれもまた良しで、聴いていたら「娘。」の「I WISH」を聴いているときと似たような気持ちになった――。

※俺とお前は友達♪古い古い友達♪遠慮するこたないのさ♪洗いざらいさらけ晒して♪(※繰り返し)

独立した三人がこういう歌を歌っていたり、「娘。」が「人生は素晴らしい♪」と繰り返し言ったりするのは妙に哀しくて惹かれてしまう。あと、爆チュー問題のコレ(↓)も同じ気持ちになる。

ピカリとタナチュー仲良しだ♪(繰り返し)

武道館の野坂昭如

  • あと、関係ないけど阿修羅原のリングネームは野坂が名づけたそうだ。意外で、どこに接点があったんだろう。昔、WARのビデオを借りてよく見ていた。阿修羅の引退試合にはホントに感動して(一緒に見ていた友達(KM君)は泣いていた)、猪木や長州の引退試合みたいに商業ベースに乗ったものと違い、そんなの目じゃないくらいの暖か味があった。確か、故郷・長崎のささやかな会場で引退試合をし、そのあとにセレモニーがあって、中年の腰と膝が悪くて思うように動けないような男が「今日、ここのどこかにオヤジとオフクロがいるんだよ」。ガラガラ声で言う。リングの上では天龍がニコッと笑って阿修羅の横に立っていて、リングの下では若手が泣きながら立っていて――。最後に阿修羅は「ありがとう」とガラガラ声で言い、頭を下げた。そして、若手の肩車で手を振りながらリングを去っていったんだよなあ、確か。

ここ(http://d.hatena.ne.jp/putchee-oya/20040122)から勝手にコピーさせてもらった記事をメモ。

いや、谷やんヤラワ記事目当てに買った『週刊現代』にイイ記事が載ってたんですよ。

あの人は今… P.S.元気です
和製チャールズ・ブロンソンと呼ばれたプロレスラー
阿修羅原さん(57歳)

プロレスラーにはよくあることだが、この阿修羅原も、何度か引退と復帰を繰り返している。ただ、最後に引退した94年以降、ほとんど公の場には顔を出していない。稼ぎを食い尽くして生活に困り、両親の元に戻ってしまったという噂が流れていたが……。

長崎県九州道諫早インターから、さらに車を走らせて20分余。一面に田畑が広がるのどかな場所で、阿修羅原さんは待っていてくれた。長崎は阿修羅原の故郷である。
「引退して親に顔を見せようと帰ってきたら、そのまま戻れなくなったんだよ」
高齢の両親の介護を一手に引き受けている。その間に、炊事、洗濯、畑仕事をこなし、両親が寝る前にはそれぞれに1時間ほどマッサージする。

両親の元に帰っていたのは事実だった。だが、それには理由があったのだ。

主な収入源は、両親の年金だ。

……。

「でも田んぼを人に貸して米を作ってもらっているし、野菜は自分の畑で作っているから。月に2万円あれば生活できるよ。鶏肉を300円分買ったら4食分は作れるね」

第一線で華々しく活躍してきたプロレスラーのその後として見ると、どうしても寂しさは否めない。だが、誰もが大仁田厚のように器用に世の中を渡っていけるわけではないのだ。

いまもプロレスへの参戦の依頼がある。
「そりゃ、金にはなると思うけどね。チケット代金以上の価値がある自分のプロレスがもう魅せられない、と引退したんだから。それに、そんなことをやっちゃ、盟友の天龍を裏切ることにもなるだろ」

素人でもリングに上がる時代だ。現役復帰のオファーがあっても不思議ではない。「盟友の天龍」こと、天龍源一郎は現役バリバリで活躍しているし、引退から復帰したレスラーの相手もよく務める。阿修羅原が復帰しないのは、彼自身に理由があるのだろう。それが何かはわからないが。

熱く語ったあと、原さんは優しい口調でこう言った。
「すべてを悟って仙人みたいになりたいんだけどね。まだ時々『俺はこんなにやってるのに』ってひがんだりする。まだまだ、ひよっこだよ」

いい記事だなぁ。

ホントにいい記事です。特に、阿修羅の最後の台詞なんてすごい。ウワーッて思うくらいの忍耐。(勝手に貼り付けちゃってごめんなさい)。