観た・聴いた・読んだことメモ

  • 「なめる」「羽織の遊び」(三遊亭圓生)を聴く。「羽織〜」の若旦那は「日曜日」のことを「ぬつようび」と言うらしい。

圓生特選ライヴ 7 : なめる / ミイラ取り

  • 「再び女たちよ!」(伊丹十三)を読む。この人のエッセイはきれいで憧れてしまう。「ハゲ書評」を書くために読んだのだが、著者の狙い通りにオチが決まり論理的な文ゆえツッコミづらい。予想通り「ハゲ書評」を書くのに苦労した。

ハゲ書評13
●「扇子」&「脱毛」 伊丹十三著(文春文庫「再び女たちよ!」収録)
伊丹は映画監督の一方でエッセイストとしても定評のある理知的な男なんであるが――。
「扇子」というエッセイでは扇子の似合う格好の例を挙げているのだが、その格好というのが、「頭が完全に禿げていることが絶対の条件」で、東南アジアの「飛行場で」、「税関吏と現地語で交渉しながら」「片手にヘルメットを持ち」、「ハンカチで禿げ頭の汗を」拭い、「忙しなく扇子を使う」のが良いという。
このように、ハゲを笑いの種にした伊丹も、「脱毛」というエッセイでは、「銀杏の葉が風に散るように」髪が抜けてしまったと告白する。
そんな伊丹は「私の家系は白髪系」であると信じ込んでていたらしいのだが、即、「白髪の禿」「嗚呼!」「私の未来像は(中略)あのスタイルではないのかしらん!」と嘆くんである。
その伊丹も、禿げる以前は「自分を選ばれた白髪系の特権階級」と大げさに思い込み、禿げ始めてから、「少数の被害者らしく見立ててしまう」自身の客観性のなさに恥じ入り、「なにが少数派だ。甘ったれるものではない」と、自ら一喝するんであった。結果、人間は「禿げようが禿げまいが」、「本質的に少数派――いや単数派として以外の生き方があろう筈もあるまい」と、無駄に難しく考えてしまうんである。でも最後は、頭髪を引っ張り「血液の循環を再開」させ、「髪が抜けなくなった」と喜ぶ伊丹なのだった。(★★★)

再び女たちよ! (文春文庫)