観たメモ

池袋エンゲイ場昼席

  1. 玉の輔(漫談)/学校のごく短い噺も。
  2. さん八(漫談)/年金のことなど。
  3. 小雪(太神楽)/「お正月のおめでたいところで『サラに良くなりますように』皿の曲芸」。サラに良くなれそうな気分。良くなりたい。
  4. 扇橋(やじろう)/この前、小沢昭一の本を読んだら毎月17日に「やなぎ句会」を開いているということが書いてあった。で、案の定、きのう(17日)小三治と扇橋は代演で、ということは仕事より俳句を選んだということで、オレはすごく嬉しい気持ちになった。やっぱり俳句って面白いし仕事ってそんなもんだということを知れたから。扇橋の俳句的発言は「節分」「寒中」「立春」。
  5. 三語楼(替わり目)/チョー普通。なんにもない。ボーっとした。
  6. 川柳(流行歌)/時間を越えたりいつも以上に客をいじったり、今日はウザイと思った。
  7. 順子ひろし(漫才)/ひろしの「あっそれは本当なんです」が好きだ。4回言った。
  8. 正雀(漫談・奴さん)/彦六のマネで「よいよい」とか言いながら奴さんを踊る。この人の話し方は、せかされる感じがする。調子が前へ前へという感じで。
  9. 文楽(漫談)
  10. 喬太郎(韓流質屋)/楽しんだ。
  11. リン太夫(蜘蛛カゴ)/精神的に休む。
  12. 志ん輔(水屋の富)/笑い話と言うより理不尽さを感じる演じっぷり。
  13. 小三治ちはやふる)/きっと今日はきのうの句会のことを話してくれるかもと思っていたら、やっぱり話してくれた。きのうの句題は「皸(あかぎれ)」と「寒中」だったらしい(だから、オレの今日の俳句の季語も「皸」)。やなぎ句会発足当時(30年以上前)の句題は「からっ風」と「煮凝り」だったそうで、そのとき小沢昭一の詠んだ句というのが――、

(1)「からっ風 フナサ本日 休みなり」(フナサ=佃煮屋の老舗)
(2)「煮凝りを 出すスナックの ママの過去」
小三治はこれを発表するや否や「いいですなあ」。俳句の味わいは、詠んだ人が詠んで、感じる人が感じれば、奥行きがある世界を構築できるということ。(1)の場合、フナサという何百年と開店していた店がたまたまやってないという非日常の寂しい日に吹く風の虚しさやら、フナサの人たちは旅行にいっているのかなあとか商品開発しているのかなあとかいろいろ感じられるわけで――、(2)なら、煮凝りという和風のものを出すママは、きっと昔吉原にいたのかなあだの、あるいはママは昔芸者だったのかなあだの、誰にもいえない傷があるのかなあだの、その感じる人によってそれぞれの世界を構成して、そして、その世界が小沢昭一人間性にまで達したときの面白さといったらないんじゃないかなあ。そのとき、突然小三治が《「隣の空き地に囲いができたんだってね」「へー」》という小咄をした。これが本当に良かったんだ〜。「やる人がやって感じる人が感じれば――、感じる人が感じればっていうのは自分の芸を弁護してますなアハハ、まあ、感じる人が感じれば味わいが出るものでございますよ」。確かに。きっと囲いのできた空き地の地主はなんらかの理由があってなくなく土地を引き渡したのかもしれないし今まで空き地で遊んでいた子供たちがこれからは遊べなくなるのかもしれないし(オレの感じ方はなんて悲観的なんだろう)。それはそうと、小三治の噺って言葉に頼るみたいな、どんな人でも同じように感じられるような技術より、間や所作みたいな感じる人が感じなければ味わいが深まらないような表現をするのだ。もし、小三治俳人だとしたら、自分がこういうつもりで表現したんだということが理解されなくてもそれはそれで仕方ないことで、現に芸談みたいなことを言い、感じ方を統制するマネは絶対しない。芸談というのは味わい方を統制すようなワザで、評論文みたいなものならいいのかもしれないけど、俳句みたいな文芸の場合、自分の句の味わい方を説明して感じ方を統制するようなマネは俳句の楽しみを台無しにしてしまうのと一緒なのだ。オレの生き方は「俳句」でいこうと思う、評論なんかじゃなく――、理解されないことの方がきっと多くて寂しいんだろうけど。きっと、求心力のある人間になれないだろうなあ。諦めよう。もう、諦めよう。なりたくもねえ。まあ、しかし、面白いねえ、俳句って。それが、言いたいだけなんだ、オレは。ちなみに、「ちはやふる」は今まで聴いた「ちはやふる」の中で(あんまり聴いてないけども)、一番味がありました。

今、飲みながら日記を書いている。だから、書いた内容に責任を持てない。