考えたことメモ

  • どんなラクゴが好きなのか(「甲府い」を振り返りつつ)

人によってラクゴに対してのモノサシは違うと思うし、いろいろあって当然だと思う。例を挙げると奇抜なギャグだったりストーリーの発想力だったり言葉に対するセンスだったりするんだろうが、落語は一人の人間が口としぐさで「世界」を作り上げる営みで、だからオレにとってはその「世界」に対し憧憬を感じられるかどうかが一番のモノサシになるのかなと最近思う。笑いだのストーリーだのはわざわざ落語に求める必要もないのかなと。

笑福亭ツルベのラクゴ魂。(ほぼ日より)
鶴瓶落語家のなかには、むちゃくちゃする人もいるんですね。だけど、落語に出てくる人物というのは、すべて「ええやつ」なんです」
糸井「うん、ほんとにそうです」
鶴瓶「だから、カン違いして、落語に毒を盛りこんでしまうと、毒が多くなる・・・」
糸井「毒を、個性と思いこんでいる人もいますよね」
鶴瓶「(中略)。ぼくは古典をやりだしてから、毒はあかんと思うようになったんです。毒を入れすぎると、それの何がたのしいねん、となってしまうんです。落語というのは、ただしゃべるだけのものですよね。オチに行くまでの動きもせず、話と言ったって、ヤマもそんなにない・・・。落語から「ええやつ」を取ってしまえば、すごく弱いものになるんです」
糸井「落語のよさって、「この世界に住みたいな」と思わせることなんです」
(中略)。
鶴瓶「だからぼくは、落語をはじめようと思ったんです。古典のよさはそこですよね。毒を盛りこみすぎてしまう師匠たちは、落語よりも大きなものを、自分の力で出そうとしてしまう・・・。ところが、古今亭シンチョウは違うんです。落語の中で、落語を崩さないで、落語で生きているんです」
糸井「そうです。そうなんだよなぁ・・・。(中略)。落語を聴きたいときの気持ちって、「今いる世の中がおもしろくない」という話をいくら正確に展開するよりも、「ほんとはこんなのが好きなんだ」という話を、夜を徹してでも聞いていたい、という気分なんです・・・」
鶴瓶「『粗忽長屋』なんていうのは、まさにそのとおりで。そんなヘンなヤツはいないだろうと思うんですけど、実はいるんです。そんなやつ、おんねん」

この日、コ三治の「甲府い」でのマクラの話題は「お札の柄が変わる→福沢諭吉→福沢の出身地である中津という街の素晴らしさ→中津の街に住んでいた福沢の母の素朴な優しさ」という展開。「福沢諭吉の母親の話を読んであたくし本当に涙を流しました」。コ三治が中津という「世界」と「世界」の住人に感じた憧憬を語っていた。そして、「甲府い」に入るのだが、あり得ないくらいいい人たちが繰り広げる物語と「世界」。本当は「けっ」と思ってしまいかねないほどあり得ない噺なんだけど、徹底された細部の演じ方のせいか「いいなあ、この世界」と思えた。そのとき、オレの「甲府い」という「世界」に抱いた憧憬に、コ三治の「中津」という「世界」に抱いた憧憬がゆり戻って重なった(←ここは主観的な感覚かもしれない)。この幸福感なんだよなあ、欲しかったのは。鶴瓶に聴いて欲しかった。コさんが言っていた「芸は人なり」って抽象的な言葉だと思っていたが、具体的な言葉なのかもしれないと思った夜だった。